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黒い海

(Wed)

Posted in 読み物

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 白のワイシャツの袖が張り付いて気持ちが悪かったことを、今でもよく覚えている。


 正直なところ、プールなんて気分ではなかったのだ。寒いし、水も汚いし、ばかばかしいと思った。

 『午前一時に、プールサイドで』

 丁寧に破ったルーズリーフの端っこを握って、貝吹はため息をついた。同じ高校生とはとても思えない綺麗な字は、あまりにとっぴな約束を一方的に突きつけてくる。むき出しの頬は寒さに触れてむしろぴりぴりと熱く、吐き出した息は白くくぐもっていた。寒い。
 東京だって、十二月は寒いのだ。プールなら夏にいくらでも見られるはずが、なぜ真冬の、それも夜中に他人を巻き込んでまで見にいかなくてはならないのか、貝吹にはその思考が理解できなかった。それも、高校生の女の子を、夜中にだなんて。あいつは勉強はできるくせに、馬鹿なのだろうか。それとも律儀に応じる自分が馬鹿なのか。とは言え呼び出しを無碍にすることはできなかったので、今こうして歩いている。

 三時間目と四時間目の間にルーズリーフの切れ端を押し付けてきた足立の姿がよみがえる。足立はなんとなく浮ついた目でこちらを見ながら、無言で紙切れを渡してそのまま理科室に行ってしまった。足立と貝吹は同じ中学の出身で、知り合って以来もう五年近くも経つが、足立がこんな風に浮かれているのは珍しい。何かいいことでもあったのかと思えば、書いてあることは意味不明の一文のみである。午前一時に、いったいどうやって学校に入ればいいというのか。
 足立に紙切れを渡されたところを見た貝吹の友人は告白の呼び出しだと沸いたものの、そういったことをするには不向きであろう指定を知って、呆れてしまった。貝吹にも何があるのかおおよそ検討がつかず、つい先ほどまで本当に行くかどうか悩んでいたのだ。足立と知り合って五年間、確かに愉快な思考を持つ友人ではあったけれど、あまり常識がないような行動はなかったように思う。



 実はうちの学校のプールの入り口の鍵、一箇所壊れてるからいつでも入れるんだよ、と友人に教わったフェンスの途中にある扉に向かう。どこか遠くのネオンの光で薄暗く浮き上がった人影が、こちらを振り向いた。足立だった。

 「貝吹。来てくれたのか」
 「そりゃ、まあ」

 小声で答えながらそっとドアを押すと、なるほど簡単に開いてしまった。開ける瞬間の緊張に比べて、あっけらかんと開いてしまった。

 「滑って落ちんなよ」
 「あんたと違ってそういうことはないね」
 「おれが突き落とすかもよ?」
 「そんなことのために呼んだの?」
 「いや? ちがうけど」

 一応注意深く、足立のもとに歩いていく。足立は見慣れた灰色のコートに、赤いおしゃれなマフラーをまいていた。いつも足立はおしゃれな男で、女のくせにおしゃれが苦手な貝吹には、足立のファッションセンスは多少憂鬱だった。やっぱり自分は垢抜けないなあと思いながら、貝吹は足立の横に立つ。

 「夜のプール、綺麗だろ」
 「そうだね。うん。初めて見た。というか初めて夜に学校来た」
 「だろ。見してやろうと思って」

 黒い水面には、ちらちらと光が揺れている。ときどき風が枯葉を運んできては、まるで大きな海に出た小さな船のように水面に放り込んでいった。
 足立はそれきり黙ってしまって、貝吹も何も言わないでいた。今何か言ってしまえば、何かの均衡が崩れてしまう気がした。どうしようかな、と少し悩んで、貝吹は急に走り出した。足立が驚いて呼んだけれど、聞こえないふりをする。一瞬躊躇したけれど、貝吹は止まらなかった。それでいいと思って、黒い水面に思い切り飛び出した。

 「貝吹!?」
 「うおおおおおやばいさむい死ぬさむい死ぬ死ぬ死ぬ!」

 今まで何のために小声で喋っていたのかわからないほど派手な音と共に、太い水柱が立った。
 瞬時に後悔しはじめて、慌ててへりに泳ぎ寄る。寒い、と連呼しながら、凍える指をプールサイドにつくが、なかなか力が入らない。結局つるつると指を滑らせて、再びぼしゃんと音を立てて浸かりきってしまった。

 「……貝吹早くあがれ、ほら」
 「いらん」
 「馬鹿言うな風邪ひくぞ」

 手を伸ばしてくる足立を無視して、ぱしゃぱしゃと手で水を弄ぶ。しなしなの枯葉が手にまとわりついて、さっきまでは船のようだと思ったのに、気持ち悪くさえ思った。

 「あだち、わたしと約束をしよう」
 「いいから早くあがれよ」
 「したらあがる」
 「わかった、約束する」

 水の揺れる音を聞きながら、貝吹は足立をじっと見つめる。足立を傷つける言葉だって知っているのだと思うと、泣いてしまいそうになった。

 「もう、夜のプールには来ないで」
 「……なぜ」
 「わたし、この黒い水の中でなら、何でも言えちゃうから。言いたくないことも言ってしまうかもしれない」
 「……………言いたくないことって?」
 「言わない。言いたくないから」

 でも、と貝吹は続ける。チラと足立を見上げると、泣きそうな目がぼんやりと照らされていた。

 「いつかもっと、明るい日差しの下なら、きれいなわたしでいられるかもしれない」

 自分でも言ってることがよくわからなかったし、きっと足立もわからないだろう。それでいい。今は何も聞きたくないし、まともな答えなんて何も持っていないと思った。

 「約束して」
 「わかった。……わかった」

 今度は素直に足立の手を取って、プールからあがる。風が吹き付けて、水に浸かっていたときよりよっぽど寒い。それなりに気に入っているジャケットも、スカートも、何もかもびしょぬれだった。自分はなんて馬鹿で、ひょっとしたらこんな時間にプールに呼び出してきた足立よりも馬鹿なんじゃないかと思った。
 貝吹は上着と、その中に着ていたセーターを脱いだ。ワイシャツがぴったりと肌に張り付いて冷たい。いっそのこと長袖なんかやめて、袖の半分くらいから下を切り落としてしまいたかった。

 「じゃあね。送らないでね。ひっそり帰る」
 「ああ、うん。なんかごめん」
 「約束忘れないでね」

 返事も聞き流して貝吹は、今度は扉に向かって走り出す。抱えた上着が煩わしかったけれど、家なら近いのでそのまま走る。このまま風邪をひいてしまえば、それはそれで笑い話が増えていい。一番不必要に思った袖は捲らなかった。







燐さんは、「夜のプール」で登場人物が「約束する」、「長袖」という単語を使ったお話を考えて下さい。 shindanmaker.com/28927 #rendai

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